四方八方よりどりけり

世紀毎に感じるものとは

ドゥボール

「あたし、この人の人生を生きてるなって思ったんよね」

 

 

 

ピザになる丸まった生地のことを、ドゥボールと言うらしい。ピザ玉とも言うらしい。

ピザってイタリアン。イタリアンってイタリア。イタリアはラテン系。ラテン語の「ドゥ」は、英語でいうところの「a」か「the」らへんなんやろう。

 


大学ではスペイン語を履修していた。1年間だけの、ただ単位を取得するための語学である。「男性名詞」「女性名詞」の区別それ自体が燃えそうやなあ と思ったことを覚えている。

性による分業の仕分けは、種としては大成功なんやろう。ただ今現代社会において、近代化を図って成し遂げた人類において。人間は種としての存続よりも個を尊ぶことを優先した。世界スケールで考える場合と、自分単位で考える場合は人格を分けた方がいい。人類が争って求めた結果の平等性と比較して、優生思想やらなんやらは古代らへんの理想を追い求めてるんやろうか。それともザ・近現代のエリート思考を引き継いでいるのか。生物的と社会的の区別をしないと平行線は続くばかりである。

 

 


「あたし、この人の人生を生きてるなって思ったんよね」

 

 

巻き戻しボタンを押さないと、私は何処に行くかわからない。

 


ピザとビールを嗜みながら、彼女は述べた。

豆苗が思ったより大きかった。私の口が小さいのだろうか。それとも、切って食べろと言うのだろうか。ピザは手で食べるもんやろ。私は豆苗を口の中に押し込めていた。私の左に座る彼女たちは、努力の素振りも見せなかった。否、既に完食していた。えっ?


ハートランドが決壊し、私の喉には黄色い泡と彼女の聡明さが流れ込んだ。時期も時期である、学生の桃色に満ちた関係性はネクストステップへと足を運んでいた。そういう私も、靴を履いたばかりである。


例えば、優しさは時に甘えである。思考の放棄である。トラブルを避けるために、口を紡ぐ。口の端を上げる。

「さすが」「すごい」「そうやな」

サ行の3活用は、言い換えれば「もうあなたと会話する気が起きないのよ」かもしれない。

 


自分たちが善としていた気遣いが、自身のレールを狭めていると気づいた時。足元を見る。なんてちっぽけな裸足だろう と気づく。裸足でいいと言ってくれたのは彼だけど、踵はガサついている。相手の爪先まで保湿していたはずなのに、気づいたら地面にクリームを塗りつけていた。これでもかと、石の先端を匂わせていた。自分でもなく、何もない地面に。ヒールが無いから等身大でいるしかないし。


空しい/虚しい。

 

 

桃色の景色は、言うならばアイドルの現場と似ている。ピンクのスポットライトに満ち溢れている。彼女たちの歌と幻想に酔いしれる。帰り道で復習としてセットリストを聴き直す。大好き!の気持ちで就寝する。

でも朝起きたら、何事もなく日々がやってくる。別に彼女たちを推そうが推そまいが、実際問題 生活は営んでいけてしまう。彼女が辞めた際は顕著である。「推し、燃ゆ。」の主人公にはなれないのかもしれない。彼女の愛は純愛であった。狂気とは、純正である。


「私、彼女がいなくても生きていけるんやなあ」


だって所詮他人なんやもんなあ。

優秀なオタク諸君は違うであろうが、あんなに好きだったのに一瞬で冷めてしまう。ただの一般人の彼女を追うことは、寧ろ彼女の本意ともかけ離れている。これは綺麗事。

言霊に、効力なんてものはない。目を覚ます行為だけで完成してしまう。

だって結局他人なんやもんなあ。


「自分の人生の主役は私でしかない」なんてことを薄くても深くても色んな人が述べている。

それら全ての本意は、「自分は、他人の人生のモブじゃない」である。モブじゃないし、ラブソングは書けやしない。だって何も無いんやもんなあ。

 


ピザは彼女たちと食べれるし、ピザになるのは私でトッピングは世界全て。ドゥボールはアタイや。