四方八方よりどりけり

世紀毎に感じるものとは

湧き水と人工染色

発作のように「排出!排出しないとしんでしまう!」と湧き出る期間がある。

 

それは誰かへの怨念だったり、社会に対する罵詈雑言だったり、単に自分の「おもろ」を信じたいがためのものだったりする。「つくろう」とした ろ過水よりも、溢れ出る湧き水を信じている。全部飲んでな

恋してないときの自分の方がおもろい。恋、というか誰かとお付き合いなるものをした瞬間におもんなくなる自分。それが、一時期消えていた所以だったりするのかもしれないですね。何故消えてしまうのか。名称だけの幼稚なものだったとしても、ある程度の責任を感じてしまう。今にもほつれて解けそうな糸だったとしても、立派に首手首足首に巻き付いているならば「ちゃんとしよう」が第一に出てくるのです。でも、ハチャメチャ環境下では藁にも縋ってしまう、人間の性質。

何が言いたいかというと、一番自分がおもろい時期だと信じている。今「暇」なのも相まって

 

立証するかのように排出ならぬ排泄は止まらず、日々として書いては消して歌っては消して書いている自慰タイム。自慰のことを嫌う、イケてる風人間がたくさんいますが、自慰っていいよな。えっちやし、比羅坂日菜子…

 

 

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ももももも燃えたくないと言っていたが、そういう時のためにブログがあるのでは?

友達に勧められた

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を、読破できていないままに返してしまった。貸し借りが苦手である。

 

昨今の騒動を振り返る。某ンリオのグッズが差し止めくらった。嗚呼。

想像に想像を重ねる。多分「女の敵は女」という言葉だけに火種がついた。それは従来、聖母VS娼婦の図が現実社会でつくられてきたことに由来する。聖母VS娼婦というのは、女性の役割が家父長制の下で「母親」「性欲処理」に二分化されることである。生まれる不満を男性/社会に向けさせないために、或いは下位的存在の自覚を防ぐために「女の敵は女」が流行させられたのである。今で言うと、浮気現場で「男は恋人を責め、女は浮気相手を責める」的なあれです。多分、その一点集中型だった。わかりませんが。敵は時と場合によるものの。そういえば、「浮気」に関しても文章化したいな、フラットマン。

社会的性、ジェンダーなんてものは社会が構築したものに過ぎない。生物的性、セックス以外は全部信憑性なんて無い。「嘘かもしんないじゃん」という文言と共に、様々な論争が繰り広げられているのです。

 

個人的にはフィクションには無法地帯を求めたい主義なので、この事案は頭を抱えてしまうのです。嗚呼フィクションじゃ済まないから怒っているのかしら。例えばPG指定だったり、公的機関だったり、そういうものにはある程度の秩序を求める。けれども、そもそも表現を「自分の言いたいことを言うため」に使っているんだもの。また、「無かったことにする」解決法に恐怖心を覚える主義である。なので、某宇宙漫画やら某鬼漫画やらの批判も怖い派閥なのです。そうして口を閉ざす。

某イメロママが言ってたことにスカッとハポンしたこともあるんだもの。恋愛って難しい。個人間の関係性のはずが、視点を変えれば社会的問題に発展するのです。やや愉快、ややキツイ。始まりと終わりは同じという事ね。

 

 

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僕の渾身のボケを「不思議ちゃん(笑)」って言ったメンズ、末代まで呪う。

「いや、別におもんない」って愛想を辞め始めた途端の驚愕顔が性癖になりつつある。

と同時に、「私しかわからない笑い」を愛してもいる。ナ、ナルシズムの真骨頂…。

 

某時のヒロインの方々が、まっちゃんの番組で「自分たちはブス弄りされてもいいんですけど、ファンの方が『よくない!かわいい!』って言わはるんですよね」と仰っていたことを思い出す。「かわいい」の多様性を賛美しているけど、「かわいい」って雑よな。何が「かわいい」やねんって偶に思う。

「え~かわいい(笑)」を使っている自分にすら、何がかわいいやねん。なんも可愛くないやろ。脳内で自分が鈍器を持っている。

ある意味で、誰でもインフルエンサーになれる時代が来てしまったばかりに、他者の盛り上げでアイデンティティが左右され得る。これ誰かが言ってたな。パクリまあす。

 

お笑い界隈の方々のお笑いへの貪欲性は計り知れないどころか想像もできないのですが、「本気(マジ)」のものは美しい。「尖ってる(笑)」が一番嫌い。お前は使い古されてほぼ書けないえんぴつみたいだね、まだ使えるはずなのにな。

勉強しようかな、お笑い界隈を。と思ってお笑い好きの友達のお話を伺う。熱が、熱がすごい。某貴族のプレモル。「見てほしい!」送られてくるリンクが3つ以上だと後回しにしてしまう癖をやめような。未鈴ちゃんと先生の初手馴れ初めエピソードを思い出す。

 

ルッキズムを不勉強であるのは、自分が「使える」容姿に摺り寄せていった過去に原因があるんでしょうか。

女芸人に対しての「ブス」「外見弄り」に関しては、嫌なら嫌で、「ウケるから使う」なら使う、とかでしかイマイチ噛み砕けていないのが恐縮すぎる後日談。

それと同時に、「いや貴女や彼女が受賞できたの、顔でしょ?」の言葉を思い出す。そんなわけあるかい。己のアイデンティティを吐血しまくったからやろがい。そうじゃなかったら、たくさんのポートレートをあげた彼女たちのリングファイトやろがい。思う。思う。

 

「自己防衛としてのフェミニズム」でいいんよなあ、ほんまに。