四方八方よりどりけり

世紀毎に感じるものとは

●マイ・サレンダー

https://twitter.com/matta_tatani/status/1489643244611051522?s=21

 

浅野いにお作「おやすみプンプン」の一部ネタバレを含みます。

 

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愛、

灰。

人生で1番病んでた20歳の夏、

私は「おやすみプンプン」を読んでいた。

https://ebookjapan.yahoo.co.jp/stories/104017/

 

日付が変わる23時台。日付が変わった24時台。1日1話、いや3話ぐらい。「おやすみプンプン」を読み進めていた。シュール×リアリズムなんて称され、鬱漫画ランキングの上位に食い込み、サブカル大学生がTシャツに着てそうな漫画「おやすみプンプン」を読んでいた。大学生ならではとも言えるかもしれない、飲んでは吐いて泣いて虚無感に包まれて世界から消えたくなる衝動を抱えたりしながらも日課は欠かさなかった。あいつもこいつもどいつもそいつもわかってねえな関係ないだろ自己防衛のために他人を殺傷してんじゃねえよだのなんだの、歌にしたりnoteにしたり僅かなちっぽけプライドを守ろうとしたり。大学サークル特有のかっこ笑いに包まれた浅すぎる人間関係に辟易していた。ガチなのかガチじゃないのかわからずして、色情で埋まっていく諸々を見ていた。と、同時に言い返せない自分に無力さを感じて線路を見ていた。

 

まあこんな感じで病んで、思って、疎んで嫌っていた20歳に、「おやすみプンプン」を読んでいた。

 

おやすみプンプン」の特徴

絵柄だろうか、現実との比較だろうか、キャラの可愛さだろうか。否、淡々と飄々と流れゆく時間の中の失望。

同じく鬱漫画と称されうる「最終兵器彼女」よりも、情緒のための空白が無い。愛のための確認が無い。ロマンスのための色が無い。イイハナシダナーにするための立体が無い。

関くんと清水くんの関係性で描かれるものは友情だろうか、相互補完だろうか。幼き人間の尊さだろうか。蟹江梓が放つ発言で示されるものは家庭環境格差あるあるだろうか、円満家庭と機能不全家庭は永遠に理解し合えないことだろうか。ペガサスなんたら団の存在は恐怖だろうか、ピエロだろうか、至高だろうか。翠さんのだらしなさが示唆していることは色欲で寂しい大人の女性の虚ろさだろうか、鬱漫画 だらしないえっちなお姉さん毎回出てこーへん?なんなん?

愛子ちゃんは、

愛子ちゃんは呪いになれなかった時点で負けヒロインが確定してしまったのだろうか。

らんまのシャンプー、セラムンのうさぎちゃん、ほたるちゃん、LEONの女の子、パプリカの赤髪お姉さん。

愛子ちゃんは、

愛子ちゃんはおらんのですか。

可哀想、可哀想な愛子ちゃん。お母さんに振り回されて、自身の可愛さで人は寄ってくるけど、お母さんに振り回されて。一生自分のことを忘れられないで思い続けてるであろうバカに見えるプンプンを、幼いプンプンを、追い詰めたつもりだったのに。アレもあげたのに。人は神になれない。可哀想な愛子ちゃん。

愛子ちゃんは呪いになれなかった。プンプンと心中できたら完璧だったのに。それで物語は完成するはずだったのに。プンプンは生き延びた。愛子ちゃんの知らないお姉さんに捕まえられた。挙句、愛子ちゃんが見えなくなってしまった。プンプンが愛子ちゃんを思うことそれ自体が作品のテーマだと思っていたのに。プンプンはプンプンの人生を生きていて、おやすみするのはプンプンだった。愛子ちゃんは人としてしか描かれなかった。ああ

僕は創作物の世界に現実を盛り込むのはナンセンスだと信じているので、ジェンダー云々の話は致しません。ロマンチストを名乗って馬鹿だと指差されても、最早 快感にさえなり得る。話を聞いて頷いて誰かの成長を見る側に回っていくのが大人の過程だと聞いて安心した。

 

「君の人生、そんなもん」

 

おやすみプンプン」の「テーマ」は何なのか、人によって違うかもしれない。自分はそう感じただけである。どのキャラにも人生が並行していて、その平均を取ってもいい。主人公の生き様を象徴してもいい。現実に反映してもいい。

皮肉がロマンスの醍醐味であってほしい。

 

切り替えが早くなって生きやすくなったけど、人間的につまらなくなったかもしれない不安に怯えている。襲いかかるであろう社会の責任可能性を考慮すれば合理的なんだろうけれども。

だからこそ、上澄みを作ろうとしたら昔の話にしかならない。気持ち悪い情を思い出した。今の話を聞いてしまって、なんなら馬鹿にしてたような人間になってて絶望した。それで、できてしまったのが「笑うな」「泣いててくれ」とかになってしまった。最悪。

 

また、浅野いにおをわかりたくて、彼がよぎって、購入した浅野いにおのエッセイを読んだ。

https://www.amazon.co.jp/%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%AE%B6%E5%85%A5%E9%96%80-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC-%E6%B5%85%E9%87%8E-%E3%81%84%E3%81%AB%E3%81%8A/dp/448087402X

 

何もわからなかった。ただ「浅野いにお、モテるんやろな」ぐらいしか思わなかった。

 

 

そんなもん。

 

_____

 

忘れないでって君に言いたかった

あの漫画の女の子 呪いになれないよ

北斗七星を信じてた 北斗七星を信じてた

のは嘘ばかりの僕らの贖罪


カオスに憧れてる

君はいつも綺麗だったのに

触れたら割れるその目を覚えてるよ


ああ今赤い鉄の上で

どうか永遠に笑わないで

あと少しで切れるから

5分前仮説 説かないで 泣いていて

湧き水と人工染色

発作のように「排出!排出しないとしんでしまう!」と湧き出る期間がある。

 

それは誰かへの怨念だったり、社会に対する罵詈雑言だったり、単に自分の「おもろ」を信じたいがためのものだったりする。「つくろう」とした ろ過水よりも、溢れ出る湧き水を信じている。全部飲んでな

恋してないときの自分の方がおもろい。恋、というか誰かとお付き合いなるものをした瞬間におもんなくなる自分。それが、一時期消えていた所以だったりするのかもしれないですね。何故消えてしまうのか。名称だけの幼稚なものだったとしても、ある程度の責任を感じてしまう。今にもほつれて解けそうな糸だったとしても、立派に首手首足首に巻き付いているならば「ちゃんとしよう」が第一に出てくるのです。でも、ハチャメチャ環境下では藁にも縋ってしまう、人間の性質。

何が言いたいかというと、一番自分がおもろい時期だと信じている。今「暇」なのも相まって

 

立証するかのように排出ならぬ排泄は止まらず、日々として書いては消して歌っては消して書いている自慰タイム。自慰のことを嫌う、イケてる風人間がたくさんいますが、自慰っていいよな。えっちやし、比羅坂日菜子…

 

 

t.co

 

ももももも燃えたくないと言っていたが、そういう時のためにブログがあるのでは?

友達に勧められた

www.amazon.co.jp

を、読破できていないままに返してしまった。貸し借りが苦手である。

 

昨今の騒動を振り返る。某ンリオのグッズが差し止めくらった。嗚呼。

想像に想像を重ねる。多分「女の敵は女」という言葉だけに火種がついた。それは従来、聖母VS娼婦の図が現実社会でつくられてきたことに由来する。聖母VS娼婦というのは、女性の役割が家父長制の下で「母親」「性欲処理」に二分化されることである。生まれる不満を男性/社会に向けさせないために、或いは下位的存在の自覚を防ぐために「女の敵は女」が流行させられたのである。今で言うと、浮気現場で「男は恋人を責め、女は浮気相手を責める」的なあれです。多分、その一点集中型だった。わかりませんが。敵は時と場合によるものの。そういえば、「浮気」に関しても文章化したいな、フラットマン。

社会的性、ジェンダーなんてものは社会が構築したものに過ぎない。生物的性、セックス以外は全部信憑性なんて無い。「嘘かもしんないじゃん」という文言と共に、様々な論争が繰り広げられているのです。

 

個人的にはフィクションには無法地帯を求めたい主義なので、この事案は頭を抱えてしまうのです。嗚呼フィクションじゃ済まないから怒っているのかしら。例えばPG指定だったり、公的機関だったり、そういうものにはある程度の秩序を求める。けれども、そもそも表現を「自分の言いたいことを言うため」に使っているんだもの。また、「無かったことにする」解決法に恐怖心を覚える主義である。なので、某宇宙漫画やら某鬼漫画やらの批判も怖い派閥なのです。そうして口を閉ざす。

某イメロママが言ってたことにスカッとハポンしたこともあるんだもの。恋愛って難しい。個人間の関係性のはずが、視点を変えれば社会的問題に発展するのです。やや愉快、ややキツイ。始まりと終わりは同じという事ね。

 

 

t.co

 

僕の渾身のボケを「不思議ちゃん(笑)」って言ったメンズ、末代まで呪う。

「いや、別におもんない」って愛想を辞め始めた途端の驚愕顔が性癖になりつつある。

と同時に、「私しかわからない笑い」を愛してもいる。ナ、ナルシズムの真骨頂…。

 

某時のヒロインの方々が、まっちゃんの番組で「自分たちはブス弄りされてもいいんですけど、ファンの方が『よくない!かわいい!』って言わはるんですよね」と仰っていたことを思い出す。「かわいい」の多様性を賛美しているけど、「かわいい」って雑よな。何が「かわいい」やねんって偶に思う。

「え~かわいい(笑)」を使っている自分にすら、何がかわいいやねん。なんも可愛くないやろ。脳内で自分が鈍器を持っている。

ある意味で、誰でもインフルエンサーになれる時代が来てしまったばかりに、他者の盛り上げでアイデンティティが左右され得る。これ誰かが言ってたな。パクリまあす。

 

お笑い界隈の方々のお笑いへの貪欲性は計り知れないどころか想像もできないのですが、「本気(マジ)」のものは美しい。「尖ってる(笑)」が一番嫌い。お前は使い古されてほぼ書けないえんぴつみたいだね、まだ使えるはずなのにな。

勉強しようかな、お笑い界隈を。と思ってお笑い好きの友達のお話を伺う。熱が、熱がすごい。某貴族のプレモル。「見てほしい!」送られてくるリンクが3つ以上だと後回しにしてしまう癖をやめような。未鈴ちゃんと先生の初手馴れ初めエピソードを思い出す。

 

ルッキズムを不勉強であるのは、自分が「使える」容姿に摺り寄せていった過去に原因があるんでしょうか。

女芸人に対しての「ブス」「外見弄り」に関しては、嫌なら嫌で、「ウケるから使う」なら使う、とかでしかイマイチ噛み砕けていないのが恐縮すぎる後日談。

それと同時に、「いや貴女や彼女が受賞できたの、顔でしょ?」の言葉を思い出す。そんなわけあるかい。己のアイデンティティを吐血しまくったからやろがい。そうじゃなかったら、たくさんのポートレートをあげた彼女たちのリングファイトやろがい。思う。思う。

 

「自己防衛としてのフェミニズム」でいいんよなあ、ほんまに。

コンテンツとしての己について

己のコンテンツとしての魅力が全くわからない。

 

急に私が自撮りばっかあげても、意味が含有されていない文面をあげても別に需要に応えているわけじゃないことはわかっている。

今日のご飯、通りすがりの猫、コンビニの新作スイーツ、世界への平和、友達への感謝、空海陸生きとし生ける生態系全てに「おやすみ」

 

言えない。言えるキャラじゃない。お、重い…自分のキャラが…。

 

選考中にやっていたことが、1日1ギャグ→1日1喋り、作詞作曲、文章吐露、鍵をつけたり外したり消えたり…。何者すぎる。何がしたかったんですかって言われたら「この時は…」って順序させる必要がある。めんどくさすぎる…。

 

評価されたであろう部分は、社会と己についてグルグル考えて書いた文章なんやろうと推測している。

miss-id.jp

 

多分。それが等身大の1少女を表していたし、コンテストの意義を為すパーツの1部分だったろう。実際に最初からの戦略としてキャッチコピーに目をやっていたし、「消したい衝動」に見舞われながらも頂きました~!はい生一丁!!!!!!って感じ。どんな感じ?Feelをそんな楽に使ったらあかん。英単語をやり直せ。

TOFELの試験って初手は結構きつくないですか?最早トラウマなんですが。猛者ばっかりいた。彼ら彼女らは何のためにあのスキル証明書を求めていたんやろう。友達は詐欺したTOEICの点数を「本当(マジ)」にするために奮闘していました。

つまりはそういうことで、軽い気持ちでつくった像は「本当(マジ)にする」でもアリなんやろうと思うのです。

 

にしては、にしては最近の自分切り替えスピードが速すぎる。ネタにならないんだよ こんなんじゃよおおう。今からがっつりフェミニズムの話をしてついてこれますか?私には無理ですマイダーリンひえひえ。何が嫌なんですか?も、燃えたくない…。目を見張るものがありすぎて、こりゃあだめだあ。一個一個紐解いてもいいんですが、迫りくるは不自由の生活環境。日常の安定を求める私に、突飛な刺激を求める権利もないのです。

 

己、己を…。

 

たった一言を取り出して、「は?うるさ」で済ませなくもないくせに拡大拡大拡大。掘り下げて掘り下げて文章に展開していく。メンヘラって言われるのも使うのも嫌いなんですが、多分的を得ているファッションメンヘラに成り果てたらどうしようのマスカル。己を…。

 

 

方向性を考えてみる。

①社会に全振り→まず炎上が目に見えるので、社会的死のルートを想像しなければなりません。選考中に「SNSが誰かに乗っ取られて炎上する夢」を永遠に見ていた私には耐えられません。俺は、弱いッッッ!!!!!!

②音楽に全振り→来春の引っ越し先でアコギは弾けません。活動停止ッッッ!!!!!!

③ネタツイをする→正直したいけど需要はあるのか?私の「おもろッ」は偶にするから趣がある。万バズまで何日か、とかいきますか?正直「私以外誰もわからない笑い」を愛しているところがある。ひねくれッッッ!!!!!!

④オタク話を喋る→なんか喋る動画が一番ウケ良いんですけど、なんでですか?受動が難しくて能動を愛しているので、他人の創作物を永遠に語ることができるのか?映画鑑賞より読書の方が進む。読書より創作の方が進む。己がコンテンツッッッ!!!!!!

⑤顔をあげる→「そういうことがしたいんじゃない」って病んだ過去の自分…。

 

己、己を…。私の魅力ってなんですか><とかも別に言えない。

結果、出そうなものを排出するだけの無限ループへ。これでええんか、これでええんかマスカル…。

 

 

どうしてこんな悩んでいるのか、暇だからです。暇は人をダメにする。だから文豪の皆さんは文章を書き続けたのね。ダメな私の方が創作意欲が上がるので、とりあえず後3日はこのままでいいかもしれないです。本末転倒。

 

「大脳辺縁の馬鹿野郎」

 

 大脳辺縁系に向かうあの匂いが好きだった。

 

 色んなことを教えてもらった。恵比寿のビールは高価な分、美味しいこと。女子大学の文化祭には、ナンパ目的の高学歴男子大学生が多くいること。哲学科には一定数失踪者がいること。自分の失望は、学問で説かれているかもしれないこと。

 

 週に一度、色んなことを教えてもらった。週に一度、家を訪ねていた。

 ハンドルネームは友達の名前を借りたこと。昨日会うはずだった初対面の女の子に、電話越しで泣かれたこと。涙の理由は知らないこと。恵比寿のビールが好きなこと。

 

 週に一度、彼のことを教えてもらった。週に一度、家を訪ねていた。

 適当な右指が適当に弾いた出会いだった。お互い他を保持していた。それが心地よかった。執着はしないでいい、それでも定期的に安心できる日がある。私に従兄弟はいないから、妄想が現実になった気がした。本当の血縁者だったなら大問題だが。

 恋愛感情の無い相互承認は、私に解放感を覚えさせた。それでも時折、日常で思い出していた。週に一回の横たわった時の匂いを。フルーティとフローラルとバニラが混ざった匂いを、道端でよく思い出していた。

 

 わざわざ視線を交える必要はなかった。恵比寿のビールは私には合わなかった。流す音楽はのっぺりしていて、早送りしたかった。冷蔵庫みたいな部屋だから、いつも羽織るものを持って行った。

 よりによって匂いだけが、全力で私の胸にキラキラを運んだ。

 

 次の日取りを決めている時、唐突に謝罪を受けた。私からの連絡は嬉しいという彼に、面倒事は勘弁だと告げた。私らしいと言われた。まあそんなもの。枕元で匂いを手繰る。ときめきの対象が実体でないことを認識した。その日は風呂に入らず寝た。

 

 

 翌朝、大脳辺縁系が何かを告げた。正体は私のトリートメントだった。本当に恋ではなかった。なんでい。私は、彼のSNSをブロックした。

アガリのお茶

「ぬるい」

 

 

 

その表現は、まさに私の立ち振る舞いを言い得ていた。さすが僕の好きな友達や!ありがとういつも!これからも仲良くできたらええなあ!友達は数じゃなくて深さやな!大学の頃に「とりあえず連絡先交換」みたいな出会い厨してたん、8割が近況も知らんなあ。友達って素敵!

 


なんてニコニコしだすことも、ぬるい。ぬるい。

酒の後はアガリが飲みたい。ラーメンをかき込む人々は、きっと違う種類の胃を持っている。課金するか、天性の胃を持っている。ほんまにすごい。見ている場面がフィクションだと錯覚するほどである。ほんまにすごい。結局、美味しいのは熱いお茶だと信じて疑わない私である。この季節となると、私は常々お湯を沸かし、お茶を淹れ、お湯を沸かす。

 


中学生の時の私は生徒会活動をしており、授業中に「静かにしよ」と言うほどの真面目ちゃんだった。「真面目ちゃん」という表現それ自体に嘲笑を感じる人がいたら申し訳ない。私としては、中学生の頃の自分が可愛くてしょうがなくて「ちゃん」付けを行なっている。嘘である。早い、俺じゃなきゃ見逃しちゃうね。誰やねん。「演じる」とかペテン話をし出す展開でもなく、ただただ、「真面目ちゃん」であった。

生徒会は、身体能力故に貢献性を感じなかった部活動を思って選挙に立候補した。今思えば、「何かに貢献しなければならない」ことが性格を表していたんやろうか。もしくは、「何かができないと居場所として心狭い」やろうか。由緒正しき感が溢れ、伝統なるものを重んじる部活動だった。

伸び伸び喋らなくても存在できる「場」がホームであるといい。「空間社会学」の顕著な例は割れ窓理論だったりする。

私のクラスからは、私以外に3人ほど生徒会に立候補していた。結果、私だけが当選した。クラスはお通夜状態。二者面談でも先生はお通夜状態。母親は「出る杭は打たれる論者」であった。気まず〜い雰囲気の中で、気まず〜く表向きは成功した。

「そういう星の下に生まれてるんや」友達から貰ったこの言葉で、多くの不都合を精算する最近である。

 


よく言えば「良い格好しい」悪く言えば「良い格好しい」名前が出るだけで動揺と共に血反吐オンパレードになる人と似ている。

愛想や媚びが力になると思ってたら、人生と社会はそんな甘くなかったよおおん。搾取構造やらなんやらに尻尾振ってたよおおん。なんていうきっかけの話がある。そこからウンヌンカンヌンしてきたものの、初対面でニコニコしない自分が想像できない。

否、前よりはマシになってきているはずである。「かわいい」「かっこいい」「素敵」「優しい」どの人がどの言葉を求めていて、どのトーンが欲しいのかを想像する。それを最近やめて、一呼吸置いて帰ることが多くなった。ほどほどが一番なんやろう。

そしてそして、ヘラヘラ加減をイケメン道に振り切るのである。ニコニコ〜ではなく、ニコッ。イケメンキャラなるものは、自他共に生きやすい気がする。さっさと転移すれば、彼女たちとも上手く関係性を築けたかもしれない。根本的な性に合ってない わけではないんやから。ハンサムショートにしてよかった。

 


図らずして彼ら向きとなっていた外見を全てやめてみた。耳、目、髪の長さに髪色、ファッションスタイル。肺と財布を思ってしまうので、煙草は手に取らないが。

「男の影響でタバコ吸ってる女の子、嫌やな〜笑」と笑っていた彼は、自分の影響で女の子に煙草を吸って欲しいんやろうなあ。

「ひどい男」を夢見る彼らにサイコパスと分類される方々をミーツミーツさせたら、どうなるんやろう。人は皆異常に憧れる。異常というほどのモノでもないんやけれども、私は君らの武勇伝に成り下がる気はない。願う通りに泣けなくて申し訳ない。デュララララ、ラララ。

メンヘラとメンヘラ製造機男論争があるが、双方「なりたい人たち」が存在する。ランナーがいる限り、やっぱり概念という名のゴールは存在するんやろう。

 


私が以前書いた「2Lラバー」という曲は、女の子が来るたびに2Lの水を用意してる男の子の曲である。2Lの水を毎日飲み続けると、水中毒を背後に据える代わりに代謝が変わる。

 

 


「ぬるい」

 


ぬるさが丁度良い。ぬるさの距離感は適切である。誰も火傷しない世界は、優しい世界だと信じて疑わない。体感温度は多種多様なんだから、皆が触れられる温度がいい。誰も傷つけないように、自分を傷つけないように。一面どころか五面ほど狂気じみてる。

「真面目ちゃん」は笑うタイプと笑わないタイプがある。主人公の正ヒロインになるのは、笑わないタイプである。取捨選択が上手くなったら面白くないのが人間という哲学であり、物語であり、恋愛であり、遊びである。

 


猪突猛進が与えるダメージを、躊躇するようになった自分は面白くない。面白くないんやろうけど、だからといって直そうとも思わなくなってしまった。自己投影をしすぎて自殺してしまった方のニュースを見たことがある。父は泣いていた。母は携帯を見ていた。私はご飯を食べていた。犬は寝ていた。

他人の曲で自分の意思を伝えようとする。仲直りしたと思っていた女の子が、帰路の途中で上げたであろうストーリーにはドン引きした。

自分の曲で、自分の文章で、自己表現をし続けないときっと、きっと何も無くなってしまうのかもしれない。体感温度は多種多様なので。

 


身を投じて、どうなってもいい と思える程の恋に恋しそうになった時であった。その一歩もフィールドもないから、今はお茶を嗜むしかないんやけれども。

ドゥボール

「あたし、この人の人生を生きてるなって思ったんよね」

 

 

 

ピザになる丸まった生地のことを、ドゥボールと言うらしい。ピザ玉とも言うらしい。

ピザってイタリアン。イタリアンってイタリア。イタリアはラテン系。ラテン語の「ドゥ」は、英語でいうところの「a」か「the」らへんなんやろう。

 


大学ではスペイン語を履修していた。1年間だけの、ただ単位を取得するための語学である。「男性名詞」「女性名詞」の区別それ自体が燃えそうやなあ と思ったことを覚えている。

性による分業の仕分けは、種としては大成功なんやろう。ただ今現代社会において、近代化を図って成し遂げた人類において。人間は種としての存続よりも個を尊ぶことを優先した。世界スケールで考える場合と、自分単位で考える場合は人格を分けた方がいい。人類が争って求めた結果の平等性と比較して、優生思想やらなんやらは古代らへんの理想を追い求めてるんやろうか。それともザ・近現代のエリート思考を引き継いでいるのか。生物的と社会的の区別をしないと平行線は続くばかりである。

 

 


「あたし、この人の人生を生きてるなって思ったんよね」

 

 

巻き戻しボタンを押さないと、私は何処に行くかわからない。

 


ピザとビールを嗜みながら、彼女は述べた。

豆苗が思ったより大きかった。私の口が小さいのだろうか。それとも、切って食べろと言うのだろうか。ピザは手で食べるもんやろ。私は豆苗を口の中に押し込めていた。私の左に座る彼女たちは、努力の素振りも見せなかった。否、既に完食していた。えっ?


ハートランドが決壊し、私の喉には黄色い泡と彼女の聡明さが流れ込んだ。時期も時期である、学生の桃色に満ちた関係性はネクストステップへと足を運んでいた。そういう私も、靴を履いたばかりである。


例えば、優しさは時に甘えである。思考の放棄である。トラブルを避けるために、口を紡ぐ。口の端を上げる。

「さすが」「すごい」「そうやな」

サ行の3活用は、言い換えれば「もうあなたと会話する気が起きないのよ」かもしれない。

 


自分たちが善としていた気遣いが、自身のレールを狭めていると気づいた時。足元を見る。なんてちっぽけな裸足だろう と気づく。裸足でいいと言ってくれたのは彼だけど、踵はガサついている。相手の爪先まで保湿していたはずなのに、気づいたら地面にクリームを塗りつけていた。これでもかと、石の先端を匂わせていた。自分でもなく、何もない地面に。ヒールが無いから等身大でいるしかないし。


空しい/虚しい。

 

 

桃色の景色は、言うならばアイドルの現場と似ている。ピンクのスポットライトに満ち溢れている。彼女たちの歌と幻想に酔いしれる。帰り道で復習としてセットリストを聴き直す。大好き!の気持ちで就寝する。

でも朝起きたら、何事もなく日々がやってくる。別に彼女たちを推そうが推そまいが、実際問題 生活は営んでいけてしまう。彼女が辞めた際は顕著である。「推し、燃ゆ。」の主人公にはなれないのかもしれない。彼女の愛は純愛であった。狂気とは、純正である。


「私、彼女がいなくても生きていけるんやなあ」


だって所詮他人なんやもんなあ。

優秀なオタク諸君は違うであろうが、あんなに好きだったのに一瞬で冷めてしまう。ただの一般人の彼女を追うことは、寧ろ彼女の本意ともかけ離れている。これは綺麗事。

言霊に、効力なんてものはない。目を覚ます行為だけで完成してしまう。

だって結局他人なんやもんなあ。


「自分の人生の主役は私でしかない」なんてことを薄くても深くても色んな人が述べている。

それら全ての本意は、「自分は、他人の人生のモブじゃない」である。モブじゃないし、ラブソングは書けやしない。だって何も無いんやもんなあ。

 


ピザは彼女たちと食べれるし、ピザになるのは私でトッピングは世界全て。ドゥボールはアタイや。

ふりかけごはん

「今日ふりかけないんやけど!!!ご飯食べれへんねんけど!!!!」

 

 

中学校、昼食の時間にそう絶叫する友達がいた。ふりかけがないと白ごはんが食べられないらしい。横にいた女の子による過度な同調を受け、その子はおかずをバクバクと食べ出した。

 

それから私は、ふりかけ を親が持つ買い物カゴに入れ続けた。親の買い物に同行する度に。
ふりかけ がかかっていないご飯は食べる価値が無いのだ。ふりかけごはん こそが、「お弁当」であるのだ。

それから私は、わずか14歳だった私は。毎朝毎朝、母が作ってくれたお弁当を包む際に ふりかけを忍ばせた。ふりかけを忘れてしまった際は絶望した。お弁当の蓋を立て、昼食をやり過ごした。ふりかけごはんじゃない、真っ白なご飯を隠すために。
小中高と、5人以上の明るめ女子グループに所属していた。小学校は給食があり、高校は良い意味で他人に興味ない子が多かった。なので、キラキラが好きな彼女たちに囲まれ、必死に素朴なご飯を隠したのは「中学校の思い出」である。キラキラが好きな彼女たちを見て、キラキラを模索した日々である。

 

当時は前髪の分け方がわからず、部分的に切っていた。ヘアアイロンなるものは家にあったが、使い方がわからない。当時見ていたインターネットは「ハム速」と「アイドルのまとめサイト」である。当然の如く、其処に生息するネット民たちが前髪の流れを知っているわけがない。彼ら彼女らが興味を持つのは、政治やサブカルや今後の組閣である。

部分的に切っていた事実が発覚された時は、恥ずかしさの余り地に還ることを覚悟した。前世紀に戻るのだ。しかし、我々は関西人であった。全てを笑いに変えてくれた彼女らに感謝する。キラキラJCでも、関西では笑いこそが正義である。ありがとう、ありがとう関西。おもろいんが善や、わかるで。世界では、そんなことはないことを。

 

それからというものの、国語の授業ではウケを重視した。席が前後の女の子と、音読で迫真の演技をかましていた。皆が早口で音読を終える中、此処が私たちのステージよエブリワンと言わんばかりに気持ちを込めた。窓側の席で良かった、背後には何もない。

 

 

笑いはともかくとしてみよう。文化資本も家庭環境も違う子供達が、地域毎に、学区ごとに分けられる。小さな社会体験とも言うにしては、閉鎖すぎる世界である。ヒエラルキーやステータスはいつの間にか決まっており、端から両思いになったりする。端からカップリングが成立し、季節の移りと共に地に還る。前世紀に戻るのだ。

美容院のお姉さんが言っていた。
「学校って片っ端から両思いになっていきません?あの子がこの子好きで、」

私の行きつけの美容院は此処で決まりや。

 

自分自身は委員長キャラでもあり、塾に通い続ける日々であったため、混沌に馴染みきりはしなかった。否、半身は常に怯えていた。大して尊敬する必要もない陸上部の先輩に媚びへつらっていた。余談をするなら、「先輩がしてた いじめは、先輩本人に全部返ってきたらしい」という話を聞いて輪郭の線が緩んだ。

「カレーをぐちゃぐちゃに食うなよ!!!!!」と、言ったガキ大将的な彼とか、
「えっ????笑」
と、最早台詞も覚えていないけど全方向を煽り散らかしていた彼女とかを思い出す。

学歴戦争に助けられた人間も一定数いるんだろうな と思うと共に、公立私立の学費問題を考えたりする。
IQの差が会話の齟齬に繋がる説を思い出す度に、世界中の人と友達になっていくバックパッカーが「Hello!!!」と声をかけてくれる。

 

全世界の人類と友達には一生をかけてもなれないのだろうが、

「結局、白ごはんが一番美味しいと思うねんな」

と言ってくれる同志とは環境の垣根を越えて話してみたい。成長と共に広がる世界と、己の「好き」に自信が持てていく。